( 平成26年7月23日 東京 江東区 )
富岡八幡宮は寛永4年(1627年)、当時永代島と呼ばれていた現在地に創建されました。周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を開き、総じて6万坪の社有地を得たのです。世に「深川の八幡様」と親しまれ、今も昔も変わらぬ信仰を集める「江戸最大の八幡様」です。 江戸時代には、源氏の氏神である八幡大神を殊の外尊崇した徳川将軍家の手厚い保護を受け、明治維新に際しては朝廷が当宮を准勅祭社に御治定になり、勅使を遣わされ幣帛を賜り、新しい御代の弥栄を祈念されました。 |
富岡八幡宮の例大祭は8月15日を中心に行われます。俗に「深川八幡祭り」とも呼ばれ、赤坂の日枝神社の山王祭、神田明神の神田祭とともに「江戸三大祭」の一つに数えられています。3年に一度、八幡宮の御鳳輦が渡御を行う年は本祭りと呼ばれ、大小あわせて120数基の町神輿が担がれ、そのうち大神輿ばかり54基が勢揃いする。 8月のお祭りが近いので、本殿には祭り提灯が飾られていました。 |
境内には大きなわらじが祀られている。小さなわらじに願い事を書いて、大きなわらじに結び付けます。足災除け・諸願成就なんだそうで、足が悪い人がここへお願いに参拝するそうです。 |
富岡八幡宮は江戸勧進相撲発祥の地として知られている。 明治33年、第12代横綱陣幕久五郎を発起人に歴代横綱を顕彰する碑が建立されました。この碑には初代明石志賀之助から67代武蔵丸までの四股名が刻まれていて、その大きさは高さ3.5メートル、幅3メートル、重量は20トンもあり、横綱を顕彰するにふさわしい堂々たる石碑です。 新横綱誕生時には相撲協会立会いのもと刻名式がおこなわれ、新横綱の土俵入りが奉納されます。また両側には伊藤博文、山県有朋、大隈重信といった賛同者の名が刻まれており、広く各界から協賛を得て建立されたことを物語っている。 |
木場の角乗(かくのり)は、江戸時代に木場の筏師(川並)が、水辺に浮かべた材木を、鳶口ひとつで乗りこなして筏に組む仕事の余技から発生しました。これに数々の技術が加わり、芸能として発達しました。 角乗に用いられる材木は、角材を使用するため、丸太乗りより技術を必要とするそうです。 |
富岡八幡宮の境内のはずれに鉄製の橋が2つ移設保存されている。 八幡橋ー旧弾正橋ーは、明治11(1878)年に造られた国産第1号の鉄橋です。アーチ部分は鋳鉄製、その他は錬鉄製の鋳鉄錬鉄混成の橋で 昭和52年には近代橋梁技術史上価値の高い橋であることから、国の重要文化財(建造物)に指定されました。 橋の形は「ウイップル形トラス」で、アメリカ人技師の設計によるもので、優れた製作技術に対して、平成元年に日本国内で初めてアメリカ土木学会より「土木学会栄誉賞」が贈られました。 この弾正橋は、もとは京橋楓川(中央区)にかけられていましたが、大正2年の東京市区改正事業によって新しい弾正橋がかけられたので旧弾正橋は元弾正橋と改称されました。大正12年関東大震災後の帝都復興計画により、元弾正橋は廃橋となり、昭和4年(1929)現在地に移して保存することになり、富岡八幡宮の東隣りにあるので八幡橋と改められました。 |
新田橋は、大横川(旧大島川)に架かり、江東区木場5丁目から木場6丁目を結ぶ、町の人びとの暮らしを支え続けてきた小さな人道橋です。 大正時代、岐阜県から上京し、木場5丁目に医院の開業をしていた新田清三郎医師が、昭和7年、不慮の事故で亡くなった夫人の霊を慰める「橋供養」の意味を込めて、近所の多くの人たちと協力して架けられたものです。 当初、「新船橋」と名付けられたが、町の相談役としても人望が厚く、「木場の赤ひげ先生」的な存在であった新田医師は、亡くなった後も地域の人々から愛され、いつしか「新田橋」と呼ばれるようになりました。 また、映画やテレビの舞台ともなり、下町の人々の生活や歴史の移り変わり、出会いや別れ、様々な人生模様をこの橋は静かに見守り続けてきました。 |